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■手漕ぎか、モーターか?
名前は有名なので一度は乗ってみたいと思う方も多いでしょう。でも、噂によると手漕ぎの時と、モーターの時がある・・。せっかく行ってモーターではと思っていた矢先、「終わり近くになると殆どモーターになるらしい」という有力情報をGET。これを頼りに、とある土曜日の午前中に出掛けてみると、見事写真のような手漕ぎ舟!
行ってみると、船着き場の横には次のような説明がありました。
★渡し船運航中は矢切(松戸)側に旗が上がっています。(確かに白地に赤字で「矢切の渡し」と書いた旗が上がってました) ★強風時・川の流れの速い時、待ち時間の長くなる時等は動力(モーター)にて航行します。 |
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手漕ぎに乗りたければ、風のある日と、午後遅くは避けたほうが賢明かもしれませんね。
ちなみにここの看板、全部手書きでとっても面白い!ご丁寧に「アイスキャンディーは食べ終えてから乗って下さい」、「舟内では音楽・案内等はありませんのでご了承下さい」(文句言った人がいるんでしょうか!?)。
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■歴史
渡し近くの案内板には、次のような説明がありました。
◆柴又側の説明
『元和2年(1616)、幕府は利根川水系河川の街道筋の重要地点15カ所を定船場として指定、それ以外の地点での渡河を禁止しました。その1つが矢切の渡しで、この付近を通る国分道に架かる渡しで、主に近郷の農民が対岸の農耕地へ渡るために利用していました。現在、都内に残る唯一の渡し場で、今も昔ながらの手漕ぎの和船が対岸の松戸市下矢切との間を往復しています。伊藤左千夫の名作「野菊の墓」の舞台となり、ヒット曲「矢切の渡し」を生んだ地としても有名です。』
◆松戸側の説明
『矢切の渡しは松戸市矢切と東京都柴又を往復する渡しでその始まりは三百八十余年前江戸時代初期にさかのぼります。
当時、江戸への出入りは非常に強い規則のもとにおかれており、関所やぶりは「はりつけ」になろうという世の中でしたが、江戸川の両岸に田畑をもつ農民は、その耕作のため関所の渡しを通らず農民特権として自由に渡船で行きかうことができました。これが矢切の渡しの始まりでいわゆる農民渡船といわれるものです。
明治以降は、地元民の足として、また自然を愛する人々の散歩コースとして利用され現在では唯一の渡しとなっています。
この矢切の渡しの庶民性と矢切の里の素朴な風景は、千葉県の生んだ歌人でもあり小説家でもある伊藤左千夫の小説”野菊の墓”の淡い恋物語の背景となっておりその小説の中で美しく描かれております』
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■「矢切」の地名の由来について
渡しの近くにある「寅さん記念館」に、次のような説明を見つけました。
『1538年(天文七)年 国府台(こうのだい)合戦がおこり”矢切”の地名が生まれる。/武蔵国東部の支配権をめぐって、里見氏と北条氏との戦いがおこり、二度にわたる勝利で北条氏がこの地域を支配するようになりました。”矢切”の地名は、その戦いからきています。』
なぜ、その戦いからくると”矢切”になるのか、今一つよくわかりませんが、とにかくそういう事だそうです。
・近隣マップ(39k)
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